新説!宮沢賢治の童話「注文の多い料理店」のモデルとされる中村家



赤坂峠を越えると見えてくる中村家
いざ、中村家へ!

北上市の銀河ガラス工房さんに訪問の際、宮沢賢治の童話「注文の多い料理店」のモデルになったのではないかとされる北上市臥牛の中村家を訪ねてみました。

話題になったのは、平成8年の「賢治生誕100年祭」のころからで、版画家の高野礼子さんが、賢治の足跡を実際にたどってみなければ絵本は描けないということでこの辺りを散策中、古い洋館があると聞きつけ中村家に辿りつきました。これを見た高野さんは、これぞまさしく賢治童話のイメージにぴったりだと感動されたそうです。それ以来数多くマスコミに取り上げられたり、賢治との関係について調査が始められました。
   

当時はモダンな洋館

現在は、洋館の洒落た印象は残っていませんが、当時なら歩いて赤坂峠を越えて下界を見渡すとこの洋館が正面に見えてくる、何故こんなところに洋館があるのだろうという強烈なイメージが残ることでしょう。

この洋館は、現当主中村正巳さんの祖父萬右衛門さんが小学校校長を退職後、当時の更木村の村長となり1917年(大正6年)に、黒岩の小菅藤左衛門という乃木稀典邸も手がけた棟梁に乃木邸と同じものを造るよう依頼したとのことです。当主中村正巳さんによると当時は白いペンキ塗りで玄関の扉は青いペンキ塗りだったようです。

では、何故「注文の多い料理店」のモデルになったかもしれない・・というと、大正13年(教員退職後)に花巻農学校の生徒たちと課外実習で和賀郡土性図を作成したことや花巻農学校の教え子が更木にもいたこと。そして、賢治が更木の座敷童子のことも書いていることなどからこの地を度々訪れていたのではないかと憶測されます。

更に、中村家の二階にある襖絵を描いた及川香石という画家が宮沢賢治の趣味の浮世絵を通じて交流があったということから、賢治は中村家を訪れた可能性があることなどが理由とされます。


昭和39年当時の中村家

現在の中村家


 
中村家を拝見!

 

鏡のある応接室
5月12日、突然のアポ無し訪問にも快く迎え入れてくれた当主の中村正巳さん。とても気さくな方で、奥様にもお茶を頂き大感激しました。

早速、家の中を案内してきただきました。1階にある応接室を拝見、普段は寝室に使用されているとのことで、「あんまり、見せでぐねんだども」とおっしゃる中村さんに無理を言い、見せていただきました。
入った途端、思わずウワーッっと声が出てしまいました。まさにタイムスリップの世界!天井の高い、鏡のある応接間、これは当時のままとのこと。失礼ながら予想もしなかったこの雰囲気、高野礼子さんが感激したのも頷けますね。

次に、二階にある襖絵を拝見しようと階段へ。この洋風の階段、素材は欅でこれも当時のまま。

当時のままの階段
     





及川香石の襖絵
これが、あの襖絵ですか〜

洋風の階段を登ると、みごとな襖絵。これは、先々代の萬右衛門さんが1917年(大正6年)にこの家を建てた時に画家及川香石が描いたもの。「注文の多い料理店」が書かれたのは1921年(大正10年)で、賢治が浮世絵に興味を持ち始めたのが1919年(大正8年)ですので、時代的にもマッチしています。

しかし、時代背景や賢治がこの辺りを歩いただろう、また及川香石を通じて宮沢賢治がこの中村家を訪れたであろうということは憶測であり、何も証拠は残っていません。ただ、当時を想像してみてください。自動車や電気も無い、こんな山中にランプの明かりがぽつんと灯る洋館があったら、これはまさに童話の世界ですよね。ここには証拠が無いからと、ただ単に切り捨てられない何か魅力がある。



中村さん、ありがとうございました

今回、突然のアポ無し訪問にもかかわらず、快く受け入れていただいたた中村さん、資料もご提供いただきありがとうございました。「いづでもいいがら、まだ来てや、んでも電話してけでや、居ねどぎもあるがら」とおっしゃっていただきました。

学生さんも、論文の資料にと時々訪れるそうです。「今の時代、夢を持ちにくい。そういう時は童話を読みなさい」と助言されるそうです。 記:畠山


現当主 中村正巳さん

和賀郡土性図


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