宮沢賢治の足跡 続 宮沢賢治の大工の家系

平成19年1月26日発行 VOL.23号
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 イーハショップ、畠山でございます。(^_^)(^^)

 「宮沢賢治の足跡」をいつもご購読いただき、ありがとうございます。

 

 前号で宮沢賢治の先祖は大工さんだったというお話しをしましたが、

 今回はそれについてもう少し詳しく述べたいと思います。

 

 □■□■□■□■□■「宮沢賢治の始祖について」■□■□■□■□■□■□

                     
  宮沢家の始祖は藤井将監(しょうげん)【1696年没】という武士であると

 言い伝えられており、江戸時代初期に京都から花巻城下に移り住み姓を宮沢に

 変えたとされております。

 今回ご紹介する大工の家系は、賢治の母イチ(旧姓も宮沢)さん方の家系です

 が、賢治の父政次郎さんの家系も先祖を辿れば、藤井将監に辿り着きます。

 それではこの大工の宮沢家が実際に賢治の母イチさんの家系の宮沢家と具体的

 にどういう風に繋がっているのかは不明です。

 300年以上前のこととなると家系を辿るのは・・・・・

 花巻では一族のことを(マキ)と呼んでいます。

 今回お話しするのは、「宮沢マキ」のある家系のお話としてとらえていただけ

 ればと思います。

 

 □■□■□■□■□■「大工の小頭としての宮沢家」■□■□■□■□■□■

 「宮沢マキ」に南部藩大工の小頭を務めた家系があります。

 初代三四郎から八代儀四郎まで藩の大工小頭として150年以上も継承されて

 きました。花巻城内における施設の新築・改修・修復等はもとより、藩の要請

 により神社仏閣の建立再建等にも携わっています。

 1代 三四郎(1729)         ( )は没年
  2代 長次郎(1770)
  3代 儀四郎(1798)
  4代 長右衛門(1806)
  5代 勇 吉(1834)
  6代 勇 助(1833)
  7代 直 蔵(1873)
  8代 儀四郎(1886)
  9代 猪太郎(1926)   猪太郎は廃藩により小頭にはなっていない。

 
  大工とは、本来は役職や地位を示すもので、作事方奉行の下の地位に頭・小頭

 が置かれ、大工小頭は配下の大棟梁・御被官・勘定役・御手大工・諸棟梁を支

 配し、工事については法規に合致しているか等、他に木材等に余分な出費がな

 いかなどについて調べる最高責任者であった。

 

                          ┌大 工
               ┌大棟梁−−大工棟梁−−|
               |           └絵図師
               |
  御作事奉行−頭・小頭−−−|
               |    ┌勘定役−−┐
               |    |     |
               └御被官−|     |−−諸棟梁
                    └御手大工−┘

 

 宮沢家は、和賀・稗貫郡二郡管内の大工職人を統率するとともに、管内で南部

 藩が発注する建設工事の設計管理にあたることが主な職務だったようです。

 南部藩では、小頭を含む棟梁と呼ばれる職人には、鍛冶・大工・塗物・左官・

 塗師・畳刺・檜物師・銅葺・木挽・瓦師などがおり、その多くが御作事奉行の

 支配下にあった。

 花巻城内にあった御作事所もその一つで、大工や木挽きたちが詰めていた所で

 、製図から測量計算、工事の入札や人足の募集などのデスクワークをこなし、

 併設の細工場で藩の施設内のちょっとした修繕や道具類の制作も行っていた。

 
  □■□■□■□■□■「花巻大工小頭としての権限」■□■□■□■□■□■

 それでは大工の小頭として実際にどのような仕事をしていたのか、五代勇吉の

 日記から知ることができる。

 ・鑑札(許可証)の交付
  ・建築の許可(無届け建築が発覚した場合、即刻取壊し又は鑑札・大工道具の
         取り上げ・差し押さえ)
  ・管外建築の罰則(好きな場所に出向いて自由に仕事はできない)
  ・鑑札料の取立て(藩に納入)

 普通、小頭・職人は一代限りであったが、宮沢家は代々世襲されてきた背景に

 は常にその時代に合った新技術習得・新工法の普及・優秀な人材の育成と登用

 等々、日夜精進努力した結果が世間に認められたからではないだろうか。

 その証拠に、五代勇吉の弟兵蔵は、寛政九年(1797)に四天王寺流を継承

 する幕府大棟梁の平内(へいのうち)政治に入門し五意を学びとっている。

 また、八代儀四郎は測量免許の取得と皆伝を、九代猪太郎は英会話の解読・鉱

 山技術取得や土木建築の知識を得ている。

 ※五意とは

 式尺の墨金(部材や建物全体の設計)
  算合(設計上の計算・積算)
  手仕事(大工として優れていること)
  絵様(絵心に優れていること)
  彫刻(向拝装飾などの彫刻技術に優れていること)

 

 □■□■□■□■□■□「九代宮沢猪太郎の足跡」■□■□■□■□■□■□

 花巻城廃止の時には猪太郎は25歳で、廃城と同時に失業した。身に付いた技

 術を活かして働きながら向学心に燃え、明治8年頃には釜石鉱山にいた外国人

 から英語の読解力と鉱山技術を習得した。

 明治24年から28年ころまでは青森鉄道(株)に鉄道技手として勤務し、鉄

 道技師に昇格した明治30年からは九州鉄道(株)に5年間ほど勤務。

 明治33年には、明治28年(1895)に下関条約が締結された春帆桜の再

 建を手掛けた。

 明治37年(1904)に花巻に戻り、花巻周辺の主な土木・建設工事の設計

 のほとんどを手掛け、また鉱山技師として鉱山の試掘や測量に従事。

 年中暇なしで東奔西走し、大正15年79歳で死去。

   参考資料 「小頭と匠」−宮澤家の歴史− 宮澤助五郎:著
            「続小頭と匠」−資料の解説と検証− 宮澤助五郎:著
             *著者の宮澤助五郎さんは、宮沢猪太郎の孫

 □■□■□■□■□■□■□「猪太郎と賢治」■□■□■□■□■□■□■□

 猪太郎が亡くなった大正15年に宮沢賢治は何をしていたかというと、花巻農

 学校を退職して羅須地人協会を設立した年で30歳の時でした。

 では猪太郎と賢治は実際に面識はあるのだろうか?

 残念ながら・・・・そういう資料は残っておりませんでした。

 猪太郎の図面等の資料は残されているのですが、実際にどのような人柄だったの

 かについての資料は乏しく、宮澤助五郎さんの本には、「白髭をたくわえた、威

 厳のある人だった」としか記されておりませんでした。

 猪太郎と賢治のころには、一族とはいえかなり遠縁にあたり親戚としての付き合

 いが無くなっていたのか、それとも全国を駆け回っていたので会う機会に恵まれ

 なかったのか、または50近い二人の年齢差のため賢治は興味を持たなかったの

 か。

 いずれにしても、猪太郎が賢治と会っていたとしたら賢治に多大な影響を及ぼし

 ていたはずですが。。。。

 

 

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