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| 1896(明治29)年 | 誕生 |
8月27日、父政次郎(22歳)、母イチ(19歳)の長男として岩手県稗貫郡花巻町に生まれる |
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三陸大津波 奥羽大地震 |
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| 1897(明治30)年 | 1歳 | 岩手県凶作 | ||||
| 1898(明治31)年 |
2歳 | 11月5日、妹トシ生まれる |
岩手県凶作 | |||
| 1899(明治32)年 | 3歳 | 仏教篤信の家庭で伯母ヤギの称える「正信偈(しょうしんげ)」や「白骨の御文章」を暗誦 | *正信偈とは、浄土真宗では毎朝お勤めするお経のことです。 *白骨の御文章とは真宗八代目の蓮如上人(れんにょしょうにん)が、親鸞聖人のみ教えを、どんな人にでも分かるようにと、易しく書きあらわされたお手紙です。 |
岩手県に赤痢流行 | ||
| 1901(明治34)年 | 5歳 | 6月18日、次妹シゲ出生 | 賢治5歳 トシ3歳 |
岩手県豊作 | ||
| 1902(明治35)年 | 6歳 | 赤痢を病む。父政次郎も看病中感染 |
東北大凶作3割作 シベリア鉄道完成 |
| 1903(明治36)年 |
7歳 | 4月 町立花巻川口尋常高等小学校入学 | 小学1年生 | 前年の凶作で東北地方飢饉 |
| 1904(明治37)年 | 8歳 | 4月1日、弟清六生まれる | 小学2年生 *宮沢清六( 1904-2001) 賢治亡き後は,賢治の残した膨大な原稿や資料を戦禍から守り、整理し全集の編さんなどに生涯を捧げた。 |
2月、日露戦争開戦 |
| 1905(明治38)年 | 9歳 | 担任の八木英三先生から(五来素川翻案、マーロー原作「家なき子」)、「海に塩のあるわけ」など童話や民話を読み聞かされる。 | 小学3年生240 | 日露終戦 東北凶作 |
| 1906(明治39)年 |
10歳 | 4月 鉱物、植物、昆虫採集し、標本作りに熱中 8月 父に連れられ花巻仏教会夏期講習に参加、暁烏敏(あけがらすはや)の講和を聞く |
小学4年生 *暁烏敏(1877-1954) 松任市の明達寺に生まれた真宗大谷派の僧。明治時代は宗門の禁書であった『歎異抄』を初めて世に広め,仏教の近代化に尽くした清沢満之の信仰をつたえ、仏教雑誌『精神界』を編集し執筆者として活躍。 |
東北凶作 日本エスペラント協会設立 |
| 1907(明治40)年 | 11歳 | 3月4日、末妹クニ出生 鉱物好きで「石っこ賢さん」と言われる |
小学5年生 | 世界恐慌 |
| 1908(明治41)年 | 12歳 | 小学6年生240 |
| 1909(明治42)年 | 13歳 | 3月 花巻川口尋常高等小学校卒業。六学年全甲、優秀賞、精勤賞を受ける 4月 県立盛岡中学校入学。宿舎生活。鉱物や植物採集に熱中 |
盛岡中学1年生 | 伊藤博文暗殺 生糸輸出世界1位 |
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| 1910(明治43)年 | 14歳 | 6月 岩手山に初登山。以後、頻繁に登る |
盛岡中学2年生 | 岩手県秋豪雨不作 石川啄木「一握の砂」発刊 (賢治に短歌創作の影響を) |
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| 1911(明治44)年 | 15歳 | 短歌創作開始。哲学書愛読。 8月 盛岡市北山、願教寺の「仏教夏期講習会」にて島地大等の法話を初めて聴いたとされる |
盛岡中学3年生 | アムンゼン南極到達 花巻高等女学校開校 |
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| 1912(大正元年) | 16歳 | 5月 松島仙台方面修学旅行。海を初めて見る。 歎異抄(たんにしょう)に感動 |
盛岡中学4年生 *歎異鈔とは、異説を嘆き、親鸞の正しい教えを明らかにするために書かれた書物。 |
花巻に電灯がつく |
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| 1913(大正2)年 | 17歳 | 三学期、舎監排斥運動で4、5年生全員退寮。 5月、北海道修学旅行。盛岡市北山の浄土真宗宗徳玄寺に移る 秋、ツルゲーネフ「処女地」などのロシア文学愛読 |
盛岡中学5年生 | 花巻に電話開通 岩手県大凶作 |
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| 1914(大正3)年 | 18歳 |
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家業の手伝い 島地大等(1875-1927)明治8年、新潟県生まれ。 願教寺26代住職。 明治43年、東大講師となり印度哲学を担当。近代日本を代表する仏教学者。 |
第一次世界大戦開始 賢治座右の書 ![]() 漢和対照妙法蓮華経 |
| 1915(大正4)年 | 19歳 |
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盛岡高等農林学校1年![]() *関豊太郎(1868-1955) 土壌学の権威。明治38年盛岡高等農学校着任。 |
岩手軽便鉄道開通 |
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| 1916(大正5)年 | 20歳 |
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盛岡高等農林学校2年
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アインシュタイン一般相対性理論発表 | ||||||||||||||||||
| 1917(大正6)年 | 21歳 |
![]() 同人雑誌「アザリア」 高農文芸愛好者が創刊 大正7年6月まで6号を発刊 |
盛岡高等農林学校3年
アザリアの中心メンバー |
岩手県豊作 |
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| 1918(大正7)年 | 22歳 |
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盛岡高等農林学校研究生
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岩手豊作 世界大戦終結 |
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| 1919(大正8)年 | 23歳 |
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盛岡高等農林学校研究生
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岩手県豊作 ベルサイユ講和条約 |
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| 1920(大正9)年 | 24歳 |
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盛岡高等農林学校研究生 *宮沢トシ(1898-1922) 賢治最愛の妹。小学校時代から成績抜群で花巻高等学校も 最優秀で卒業 。大正4年に日本女子大学校に入学。大正7年東大病院小石川病院に入院。最終の試験は受けられなかったが、成績優秀により卒業を認められた。 |
第1回国政調査人口5596万余 | ||||||||||||||||||
| 1921(大正10)年 | 25歳 |
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原敬暗殺 高知尾智耀(たかちおちよう) (1883-1976) 国柱会理事 賢治に「法華文学」の創作を勧める |
| 1922(大正11)年 | 26歳 |
![]() 稗貫農学校 「桑っこ大学」と呼ばれていた。 (現在の総合花巻病院の場所) |
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ソ連邦成立 日本共産党結成 ![]() 左 川村悟郎(精神歌作曲) 中央 堀籠文之進 右 宮沢賢治 |
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| 1923(大正12)年 | 27歳 |
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花巻病院、花巻温泉開業 関東大震災 |
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| 1924(大正13)年 | 28歳 |
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![]() |
レーニン没
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| 1925(大正14)年 | 29歳 |
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岩手県豊作 JOAKラジオ本放送 |
| 1926(昭和元年) |
30歳 |
![]() ![]() |
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アムンゼン北極横断 賢治、自耕の畑 ![]() 賢治愛用のチェロ |
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| 1927(昭和2)年 | 31歳 |
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芥川龍之介自殺 | ||||||||||||||||||||||||||
| 1928(昭和3)年 | 32歳 |
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第1回普通選挙 |
| 1929(昭和4)年 | 33歳 | 病床生活 春、東北砕石工場の鈴木東蔵の訪問をうける 文語詩製作。旧稿の手直し |
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世界経済恐慌 | ||||||||||||||||
| 1930(昭和5)年 | 34歳 |
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| 1931(昭和6)年 | 35歳 |
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満州事変始 東北冷害 |
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| 1932(昭和7)年 | 36歳 | 病床中、東北砕石工場や肥料設計の相談に応答 作品推敲。菜食続行衰弱 <宮沢賢治と東北砕石工場の人々> 昭和6年3月26日撮影 |
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上海事変 満州国建国 |
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| 1933(昭和8)年 | 37歳 | 1月 病床中、わずかに歩行可能、肥料相談続行 |
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岩手県豊作 |
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